業界ニュース 免責事項 | ã¥, ããã¤ã¯ããã»ãã¤ã¬ãã¬ã¼ãã³ã°, ãã¼ã ã ã¼ãã¼ãã¤ã³ãããã°ã©ã. (毎日更新), 現在位置: ニュース ガイドライン | スタジオマリオのcm出演者は誰? マクアケのcm出演者は誰? ベストディライト ホテル&スパグループのcm出演者は誰? ゼクシィのcm出演者は誰? afkアリーナのcm出演者は誰? 最近のコメント. 大野 方栄(おおの まさえ、1958年8月23日 - )は、東京都出身の女性歌手。 数百曲のcmソングを歌って「cmソングの女王」と言われた。 代表作にはニッスイのちくわ、ムーニー(紙おむつ)、すかいらーく、伊勢丹テーマソングなど。 1982年に子供向け番組『ひらけ!ポンキッキ』挿入歌『やせろ! サイトマップ | 「ムーニー」「マミーポコ」おむつcmモデルやパッケージモデルの過去の出演者はご覧の通りです。 【ムーニー/マミーポコのおむつCMタレント】 CM「ユニ・チャーム/マミーポコ みんなのおむつ篇 … 1990年代に登場したクルマのCMにも、1980年代同様に印象的な出演者が多かった。前回に続き、モータージャーナリストの小川フミオがセレクトした5台のクルマと、そのCMを振り返る。, 【今見ても斬新! CM出演者が話題になった80’sのクルマ5選】クルマの広告は、1990年代までわかりやすく、元気があった。その証拠が、スターの起用だ。自動車メーカーは、映画や楽曲などで人気が出れば、大物だろうと、どんどん登場させた。, 1990年代の広告でまっさきに思いつくのは、SUBARU(当時は富士重工業)である。キラ星のごとく、海外のスターたちが広告に登場した。, ロッド・スチュワート(1993年)をはじめ、ブルース・ウィリス(1991年と2005年)、カイル・マクラクラン(1994年)、メル・ギブスン(1996年)、ケビン・コスナー(1998年)、ジェニファー・ロペス(2001年)、そしてロバート・デニーロ(2009年)と枚挙にいとまないほどだ。, 「あるイメージを持った有名人が『(お客様が)レガシィを買って始まる新しい素敵な生き方』を表現することは、(顧客にとってそのクルマの)コンセプトがわかりやすく伝わると思います」, 当時、富士重工業の宣伝課勤務だった岡田貴浩氏が、広告に外国人を多く起用してきた理由について述べた。じっさい、たとえば、ロッド・スチュワートとレガシィ・ツーリングワゴンの組み合わせは、大きな話題を呼んだ。, 「普段、スポーツカーとか高級車に乗っていそうな人がカッコよくレガシィ・ツーリングワゴンに乗ってホテルに乗りつけるのは、ありだよね? と。ロックスターのロッドの起用は、きっと市場でもサプライズになり、ワゴンのイメージを変えてくれるのに“パワー”がありそうだ、ということで踏み切りました」, ハリウッドスターの起用については、ギャラが高額になるケースが多く、費用対効果の面で疑問視する向きもある。しかし岡田氏は、「(ロッドを起用した)2代目レガシィからスバルのイメージは飛躍的に向上しましたから、費用対効果はありましたし、思い切ったキャスティングは成功したと思います」と、話す。, いまでは「海外セレブはネットで私生活が晒されていますし、海外タレントへの憧れ、インパクトがかつてほどではなくなっていて、費用対効果が期待できない」(大手広告代理店のプランナー)と、言われ、少なくともクルマの広告でハリウッドスターを見ることはほぼなくなった。, しかも広告媒体が変化しており、テレビコマーシャルでなく動画配信に力を入れ始めたメーカーも多い。たとえばロールス・ロイス。2019年に「ファントム」のコマーシャル動画を作成したさい、英語圏でメガヒットしたドラマシリーズ『ゲームオブスローンズ』の主演女優グウェンドリン・クリスティを起用。これが大きな話題となったのは記憶に新しい。コマーシャルのかたちが変わってきているのだ。, ここでは、現実をしばし忘れ、1990年代にテレビコマーシャルでも話題を呼んだ日本車をとりあげてみよう。広告も印象的だったが、クルマにもそれなりにキャラクターがあったのも、また、たしかである。, 昨今はドイツ車を買おうか、スバル車を買おうか、と、迷うひとも少なくない。でも1980年代まではスバルは地味なイメージだった。軽自動車の「レックス」、3気筒エンジン搭載のリッターカー「ジャスティ」、それに「レオーネ」でラインナップが構成されていた。, スバルのイメージを劇的に変えたのが、1989年発表の初代「レガシィ」だ。実直で機能主義的なイメージのレオーネから、グラマラスともいえる張りのある面を持つボディと、凝ったドライブトレインなどで”武装”したレガシィへのバトンタッチは衝撃的だった。, 操縦すると、加速がよく、とにかく速い。ボクサーエンジンとか、4WDとか、スポーツワゴンとか、コンセプトもわかりやすい。それゆえ、クルマ好きにおおいにウケた。レガシィを買う理由を訊ねられたとき、購買動機は山ほどあげられた。ヒットの要因だ。, なぜスバル車は一夜にして大変身をとげられたのか。レオーネの時代までは、メインバンクである興銀(日本興業銀行)の存在がさまたげになっていたようだ。, 「興銀は、(同様に同行をメインバンクとしている業務提携先の)日産自動車の邪魔をしないラインナップと規模で商売してくれればよいと考えていたようで、開発に積極的な融資を受けるのが難しかった」, SUBARUの関係者は話している。それを変えたのは、1985年に代表取締役社長に就いた故・田島敏弘氏の尽力だった、という。, 興銀出身ながら田島社長(当時)はスバルを、マツダや三菱自動車を超えるメーカーに成長させようとしたそうだ。そこで、テストコースを建設し、SIA(いすゞ自動車と共同出資の生産会社)を設立、さらに、レガシィの開発と、積極的な投資を決断したのだった。, 1993年発表の2代目レガシィは、ツインステージターボを装着した2.0リッター水平対向4気筒エンジンをはじめ豊富なエンジン機種、アクティブ・トルク・スプリット式4WDシステム、電子制御サスペンションなど、頭がくらくらするぐらい豊かな技術内容を誇った。, 乗るたびパワーに圧倒されたものだ。なかでも足まわりなどに専用チューニングを施した「RS」は速かった。さらに、2.5リッターエンジン搭載モデルや、いまでいうクロスオーバースタイルの先駆でもある「グランドワゴン」も設定され、車種展開も大胆で、興味ぶかかった。, 2代目のテレビCMに、ロッド・スチュワートが起用されたのは、さきに触れたとおり、ワゴンに高級感が欲しかったから。ひとりの視聴者として見ても、その狙いは間違っていなかったように思う。, 今でも海外航空会社の短距離フライトで、たまにビデオが流れている英国製コメディ『Mr.ビーン』。セリフなしで世界中の笑いをとるというみごとな試みはエバーグリーンだ。, いっぽうこちらは説明なしでいいクルマと世界中に認められたか? と、いえば微妙かもしれないのが、Mr.ビーンを起用した日産「ティーノ」だ。, 1998年に発売されたティーノはユニークな試みのあったクルマである。「サニー」のプラットフォームを使い、4270mmと短い全長に対して、全高は1510mmと高め。ちょっと変わったプロポーションだ。, 室内幅を広くとったパッケージが斬新な試みで、くわえてリアシートは脱着可能だった。リアシートは通常3人がけだが、中央のシートを取り外すことで、空間的な余裕が生まれた。, おもしろいアイディアだったが、シート・デザインを含めてインテリアはもっさりしており、レジャー用に開発されたのか、それとも新世代のリムジンなのか(それはなさそうだったが)、コンセプトが明確でないのは最大の欠点。, 2.0リッターエンジンを搭載していたが、走りはパッっとしていない。くわえて、乗り心地もよいとは言えなかった。ようするに、中途半端。, 当時の日産には、いろいろ迷いがあったようだ。セダンとステーションワゴンを揃えたものの床が妙に高くて快適でなかった「ルネッサ」(1997年)や、ミニバンクルーザーというコンセプトで登場したが室内は期待より狭くて使い勝手がいまひとつだった「プレサージュ」(1998年)も、例として思いつく。, 新しい自動車を作りたい、という心意気のようなものは伝わってきたが、クルマとしての完成度はいまひとつ。1999年から日産自動車の筆頭株主になるルノーはアイディアをひねったミニバン(たとえば1996年発表の「セニック」)を得意としていたので、どうせなら提携を待ってじっくり練られたコンセプトでティーノを作ってくれたほうがよかったかもしれない。, 「新規導入車種だったので、人気の高かったMr.ビーンの起用で大きなインパクトを与え、話題を喚起することを期待しました。また、コメディアンによる大げさな表現で特徴を分かりやすく表現したかったのす」と、起用の理由について、日産自動車の広報は説明した。, なるほど、たしかにMr.ビーンのあの独特の表情がコマーシャルで大写しになったことも、さらに、英国のラウンドアバウト(ロータリ−)をぐるぐるまわる映像も、おもしろかった。あのシーンは、クルマ好きで知られるMr.ビーン役のローワン・アトキンソンも、ティーノのドライバビリティに感心したということだったのだろうか。, でも、きっと本来は、街中をぐるぐる走るのでなく、快適なグランドツーリングができるミニバンっていうのがティーノにぴったりのコンセプトのはず。そんな整合性のなさというか、企画のあいまいさが、いろいろな意味でティーノらしさだった。, 「セダンより使いやすく、ワゴンより楽しい」。ダイハツが1996年に「パイザー」を発表したときのキャッチフレーズだった。, ベースは4ドアセダンの「シャレード・ソシアル」。ホイールベースは55mm延ばして2395mmだったが、それでもミニバンというには、短かった。, 「お、パイザー」と、今だったらセクハラとしてやり玉にあげられそうなダジャレの合いの手が入るテレビCMでは、ハワイ出身のグラビアアイドル、アグネス・ラムが登場。彼女のグラマラスな肢体に魅せられていたファンは、このオヤジギャグににやにやしたものだ。, コマーシャルでは、アグネス・ラムがひとりで、パイナップル畑の細い道を運転している映像が流れた。, はっきりいって、クルマとしてはほとんど印象に残っていない。外寸はコンパクトに抑えながら、室内空間をなるべく広くとり、フルフラットシートを装着するなど機能性をもたせたパッケージングが特徴であるものの、趣味性はない。, いまじっくり画像を眺めていて思うのは、バンパーガードなどでオフロード的なイメージを強調した「4WD」の路線をさらに追求するとよかったのでは、ということだ。, クロームパーツを増やしたり2トーンの塗色にしたりしたスポーツイメージの「エアロダウン(99年からはエアロダウンカスタム)」のような仕様は、パッケージングのよさで売るべきこのクルマのコンセプトを、市場が見誤る原因になったのではないだろうか。, 「トヨタってたいへんだなぁ」と、当時、思わされたのが、「キャバリエ」だ。アメリカ合衆国市場において日本車のシェアが伸びていく代償を、キャバリエというかたちで支払うことになったからだ。, キャバリエは、ゼネラルモーターズがシボレーブランドで開発したコンパクトクラスの乗用車だ。社内ではJカーと呼ばれ、姉妹車としては、キャデラック「シマロン」、ビュイック「スカイホーク」、オールズモビル「フィレンザ」などがあった。, こうやってGMのJカーをずらずら挙げてみても、どれひとつとしてほとんど知られていない。この時代の米国車は日本人にとって興味の対象外だったのだ。キャバリエは、4ドアセダンにくわえて、クーペとワゴンも設定されていた。それも誰もよくは知らなかった。, トヨタがキャバリエをOEM(相手先ブランド製造)で手がけるようになった背景には、1960年代に端を発する日米間のいわゆる貿易摩擦がある。繊維製品に続いて、石油ショックで揺れる米国市場に燃費のいい日本車がどっと輸出され、1975年には米国市場における約半分のシェアを占めるまでになった。, それについてクレームをつけてきた米国政府を納得させるために、現地工場の設立や現地部品調達など、日本の自動車メーカーはさまざまな貢献をすることに。その一貫が、キャバリエだった。, トヨタ・キャバリエの名で1995年から売られるようになったのは、本国でも同年にデビューした第3世代。全長4595mmのボディに搭載されるエンジンは、本国では2.2リッターOHVにはじまり、2.5リッターV6までと豊富なラインナップだった。, トヨタが選択した仕様は、セダンとクーペ。ともに、2392cc直列4気筒DOHC。4段オートマチック変速機を組み合わせた前輪駆動車だ。エンジンは日本の道路事情にかんがみてチューニングがほどこされていた。サスペンションの設定も同様だ。, 印象は……というと、こちらも印象に残りにくいクルマ、というものである。GMの4気筒エンジンは低回転域のトルクが厚くて扱いやすいが、いっぽうで、上の回転までさっとまわるかというと、それは不得意だった。, ハンドリングも特筆するほどのものはなく、同様のことが乗り心地にもいえた。米国の大衆車ってこんなものか、というのが学べたが、それはけっしてメリットとはいえない。, 価格は180万円台からで、カローラの上級仕様よりも安かった。トヨタ自動車はここでもたいへんな貢献をしたといえる。それでも売れ行きはぱっとせず、当初の計画より早く生産中止となった。, テレビCMには所ジョージ氏が、ハスキー犬と出演。シボレーだったら、納得いく組み合わせだ。しかしキャバリエは、トヨタ車でないが、トヨタ車である。米国のサブカルチャー好きで知られる所氏を起用したものの、露骨に米国的なものは訴求できない。, そんな二律背反したような状況が、あらゆるところに露呈していたのがキャバリエなのだ。CMでは、キャバリエに乗っかっている犬に向かって「動物的楽チン、キャバリエ」って。ちょっと意味が……。そして最後は価格がセリングポイントに。トヨタもたいへんだったのだ。, 最後はホントの「ガイシャ」のテレビCMである。ゼネラルモーターズの輸入元だったヤナセが1996年に制作したキャデラック「セビル」のコマーシャルには、サザンオールスターズの桑田佳祐氏が出演していた。, CMのセビルは1992年登場の第4世代。ディテールを積みかさねてデザインを構成していくような従来の米国車と一線を画し、美しいシルエットで特徴を出すという欧州的なデザイン手法を採用し、それが米国市場でも評価された。, 1993年に4バルブ化されたアルミニウムブロックのV型8気筒エンジン「ノーススター」を搭載し、270psの「SLS(Seville Luxury Sedan)」と295psの「STS(Seville Touring Sedan)」の2本立てだった。STSはサスペンションシステムも専用だった。, スタイリングはとりわけプロファイル(サイドビュー)が特徴的だった。Aピラーからリアクオーターピラーまで、すべてのピラーが上の仮想点で結ばれるという、欧州車や一時期のトヨタ車によく見られた軽快感のあるものだ。, スタイルからのイメージにふさわしく、操縦性も、従来のセビルとは一線を画していた。走らせると、欧州車的にスポーティで、小さなコーナーではさすがにV8をぶらさげたノーズは重く感じられたものの、足はしっかりしていたし、操舵への車体の反応もよかった。, 思えばこのあたりから、現在にまで続く、操縦して楽しいクルマをつくるというキャデラックのエンジニアリング精神が発揮されるようになったのだ。スタイリングも、シャープなエッジを強調した独自なものとなっていく。, ということで、セビルの内容を知ってコマーシャルを観ると、野原の草の上に腰をおろし、アクースティックギターをかき鳴らす桑田佳祐氏のイメージは(いい曲ではあるけれど)前の時代のキャデラック的である。私が選ぶなら、ケミカル・ブラザーズとかスマッシング・パンプキンズだろうか。ようするに、元気のいい新しい世代のクルマだったのだ。, とはいえ、日本人のクラウン・ユーザーなどにも訴求するのであれば、わかりやすい桑田佳祐氏の起用はアリだったのかもしれない。, ※2014年3月31日以前更新記事内の掲載商品価格は、消費税5%時の税込価格、2014年4月1日更新記事内の掲載商品価格は、消費税抜きの本体価格となります. クルマもさることながら、cm出演者が話題になった1980年代のコンパクトカーを小川フミオが5台セレクト。当時の思い出を振り返る! クルマの世界では、大型化がいきつくところまでいった感がある。 中古車物件数461,357件 )以外の者に支払う交通費については、1回に支払う出演料の金額が5万円を超える者に支払うものを除き、源泉徴収の対象としない。 2 該当出演者には、次に掲げるような者が含まれる。 まがいもの?? > ご意見・ご要望 | ギャラリー:あの人も出演! cm出演者が話題になった90年代のクルマ5選. > CM出演者が印象的だった80年代の国産コンパクトカー5選, 現在JavaScriptが無効になっています。Carview!のすべての機能を利用するためには、JavaScriptの設定を有効にしてください。, クルマもさることながら、CM出演者が話題になった1980年代のコンパクトカーを小川フミオが5台セレクト。当時の思い出を振り返る! クルマの世界では、大型化がいきつくところまでいった感がある。そしてSUVでも、いまは針が逆に触れ、日常的に使いやすいコンパクトサイズが見直されている。, もうひとつ、コンパクトカーのいいところは、買いやすい点にある。いまも若いひとが、軽自動車をはじめ、トヨタ「ヤリス」やマツダ「2」に乗っているように、クルマに興味あるひとたちは、まず、コンパクトカーから自分の自動車との生活をスタートさせる。これが一般的だ。1970年代から1980年代にかけては、そういう層がとりわけ厚かった。自動車メーカーは、コンパクトカーを嗜好するユーザーの取り込みに必死だった。当時のテレビコマーシャルには、若者に人気の俳優や歌手が動員された。1970年代のコマーシャルは、紙芝居のような作りが多くて、いまの視点からすれば、稚拙だったかもしれない。しかし、メッセージ性は強い。楽曲を、たとえば、現代のBTS のようにBPM(テンポ)が速いものと差し替えるだけで、いまでも十分通用しそうな作品もある。出演者の服装とヘアスタイルこそ時代をかんじさせるけれど。とはいえ、CMの主役であるクルマこそ、観るべきものだ。コンパクトカーといえば、当時の大きなマーケットのために、メーカーが一所懸命開発したものばかり。とりわけ1980年代は、技術的にもデザイン的にも大きな飛躍があっただけに、いまコマーシャルを観ても、情熱が伝わってくる。(1)トヨタ・カローラII(3代目)×原田知世カローラでは(価格でもサイズでも)ややトゥーマッチ。だけど、やっぱりカローラというブランドの神通力が通用するマーケットが、1980年代初頭には確実に存在した。1978年にスターレットとカローラの中間を埋める車種として「ターセル/コルサ」が登場。1982年にモデルチェンジした際に、販売系列であるカローラ店むけに開発されたのが初代「カローラII」である。ターセルは英語でハヤブサ、コルサはイタリア語でレースを意味していた。すごい名前を選んだものだ、と、当時感心した。それに対してカローラIIはひかえめだ。1986年にモデルチェンジしたときは、ハッチバックは格納式ヘッドランプを備えたスタイリングになり、ターボモデルも設定するなど、買いやすさというより、若々しいスポーティさを製品の核に据えるようになった。原田知世をテレビコマーシャルのイメージキャラクターにしたのは、3代目だ。1983年に映画『時をかける少女』の主演で大きな人気を獲得し、当時、薬師丸ひろ子、渡辺典子とともに“角川三人娘”と称されてマスコミにもひんぱんに登場したのが原田知世である。1988年にカローラIIのコマーシャルに登場したときは、すでに角川春樹事務所との契約を終えており、トヨタ・セリカGT-FOURが活躍する映画『私をスキーに連れてって』(1987年)に主演するなどして新境地を開拓しはじめた頃だ。角川映画のころの原田知世は『愛情物語』や『天国にいちばん近い島』(ともに1984年)などで、ミドルティーンのかわいらしさが強調されていたので、イメージ的にクルマとは結びつけにくい。そのイメージを、ホイチョイ・プロダクションが手がけた”超”をつけたくなるトレンディな作品で脱ぎ捨て、”彼女”にしたい女の子へと成長していた。それゆえ、原田知世が、クルマでのデートをおねだりするというのも、もはや違和感がなかった。ただ、コマーシャルのバージョンが変わるたびに、髪型をふくめ原田知世が演じるキャラクターのイメージが大きく変わったのが、ある意味印象的だ。制作側に、原田知世と消費者の適切な関係性について悩みがあったのかもしれない。たんなる演じ手としての彼女を、ではなく、内面を表現するように見せたほうがよかったように思えた。カローラIIは先述したように、スターレットでは小さすぎるという層に向けて開発された。3代目になっても全長は3865mmに抑えられ、コンパクトさゆえの扱いやすさが身上だった。このクルマのもっともいいところはどこか。それを考えると、クルマそのものというより、クルマで出かけるって楽しい、と若者層に思ってもらうのを使命としていたところではないだろうか。(2)ニッサン・パルサー(2代目)✕桑田佳祐&森英恵1978年の初代パルサーは、日産自動車がようやく、というかんじで発表したハッチバックスタイルを特徴としたコンパクトモデルだ。チェリーの後継にあたるため、初代の全長は3960mm、1982年にフルモデルチェンジを受けたときも、ハッチバックの全長は同じにとめおかれた。とはいえ、2代目パルサーはいっきに拡張路線をとった。ボディバリエーションは、2ドアハッチバック、4ドアハッチバック、セダン、それに2ドアクーペ(名称はEXA)といったぐあいだ。さらに産業振興および雇用促進のため工場を新設してクルマを作らなくてはならなくなったアルファロメオに、このハッチバックのボディを提供したこともある。いいところは、デザインに凝っていて、たとえ同じようなハッチバックボディでも、2ドアと4ドアはかなり強く印象を変えていた。リアクオーターガラスの面積をおおきくとった2ドアはスポーティで、黄色などの塗色もよく映えた。パルサーといえば、2ドアハッチバックのテレビコマーシャルは、俳優の中村雅俊を起用していたのが印象的だった。なかには、ふしぎなコマーシャルもある。桑田佳祐と、森英恵が登場するヴァージョンだ。パルサーは、サニーや従来のチェリーではカバーしきれなくなった若者層に向けたコンパクトという意欲作であり、なかでもエクサは粗削りとはいえ、シャープなウェッジシェイプを強調したスポーティな雰囲気のモデルだった。たとえば『24時間テレビ』(日本テレビ系列)のためのスポットCMとして製作された作品には、EXAと4ドアハッチバックが登場。たんにビデオを回しただけのようなお手軽さが、妙に印象ぶかい。ふたりの起用は番組がらみであることは、容易に想像できた。当時26歳の桑田佳祐はターゲットと重なるため、登場するだけでも、なんとなく起用の目的を察することが出来た。しかし、森英恵は……。と、理解に苦しむ内容だった。そういえば、パルサーEXAは、ひとつ歴史的なことをしたクルマでもあった。1983年にドアミラーが解禁(それまでは日本車には許されていなかった)されたのと同時に、まっさきにそれを採用したことだ。国内で売られる日本車として初のドアミラー車であることも自動車史に残るだろうか。(3)ホンダ・トゥデイ(初代)×今井美樹軽自動車は女性が大きなターゲット、というのが不思議でしょうがないが、それはともかく、初代のホンダ・トゥデイが発表された1985年頃は、まだ、キレイな女優をコマーシャルに登場させ、雰囲気で女性客に訴求をはかっていたものだ。トゥデイは、大胆なデザインだった。ひとつは、丸形ヘッドランプに黒で塗っただけの合成樹脂バンパーという、イタリアのフィアット「パンダ」を思わせるユーモラスなフロントマスク。さらに、大きなウィンドシールド。さらに、2ドアのみの設定。さらに、1315mmに抑えた低い全高。デザイナーの主張(どんな主張かわからなかったけれど)が強く打ち出されていたのが印象的だ。外観だけでなく、メカニズムもユニークである。エンジンは545cc直列2気筒。ボディ構造はサイドシルを低くしつつ、剛性を確保する設計。ギアボックスをクランク軸と同一線上に起きつつ、デフ(左右輪の差動ギア)はその下に、というスペース効率追求のレイアウト。常識にとらわれず、独自の設計を追求するこのようなプロダクトをして、当時は”ホンダらしい”と評価する向きが多かった。ホンダでは、シティにスカロックのバンド、マッドネスを起用しつつ、上級車種では美男美女モデルを使うなど、プロダクトに応じてコマーシャルのコンセプトを変えていた。トゥデイは上記のように凝りに凝っていたものの、軽自動車だったので、女性へのアピールをはかるためか、モデルであり歌手でもあった今井美樹を起用した。今井美樹には、ちかくにいたらいいなと思わせる存在感が、私にはあった。けれども、トゥデイの成り立ちをアピールするには、もちろん、ふんわりしたイメージ訴求では不十分なのだ。だからといって、えんえんとメカニズムやデザインの趣旨を説明するようなコマーシャルは成立しなかっただろう。海外の新車のコマーシャルでは、メカニズムなりコンセプトなりスタイリングなりを、一点突破でアピールすることを狙うものがある。トゥデイを例に考えると、たとえば”低くしたことには意味がある”とか”モノフォルムこそ美しい”とか、特徴をしぼったうえで、それを前面に押し出したメッセージでも成立したのではないか。あくまで素人考えですが。コマーシャルって、そこがむずかしい。(4)マツダ・ファミリア(6代目)×中井貴一メーカーの大きな自信を感じさせるコマーシャルだ。オーケストレーションを使いながら、ビートも効かせたジョー・ジャクスンの楽曲と、前輪駆動化されてから2代目となるファミリアのスタイリングを丁寧に見せるのが中心。ファミリアは1980年の前輪駆動モデルが大ヒット。1985年のこのモデルはキープコンセプトであるものの、かなり洗練されたデザインに変わった。前のモデルのような薄っぺらさがなくなり、欧州でも通用しそうなかたまり感がしっかり出たのである。そのコマーシャルは、クルマの映像と楽曲だけで勝負して絶賛された、1983年の3代目「シビック」のコマーシャルと通じるものがある。でも、マツダはそれだけでは不安だったのだろう。当時のテレビドラマである『ふぞろいの林檎たち』(TBS系列・1983年にシリーズ1放映開始)などで人気のあった中井貴一の映像をインサートした。ほとんど意味のない組み合わせに、いまでこそ思えてしまうものの、『サラメシ』(NHK)での軽快な喋りや、三谷幸喜の舞台や映画で見せるややユーモラスなキャラクターとは正反対だったのが当時の中井貴一である。目力で勝負というかんじの中井貴一の存在が妙に印象に残っている。このファミリアは、1600cc直列4気筒ガソリンDOHCターボなど、けっこうパワフルなエンジンが主役で、かつ足まわりもしっかりしていた。走らせて印象的だった記憶がある。デザイナーもエンジニアも、出来に満足していたのではないだろうか。シンプルだけどインパクトのあるコマーシャルから強く感じらたのは、そこであった。(5)スバル・レックス(3代目)×古手川祐子→松田聖子→山田邦子スバル・レックスといえば、私にとって、吉田拓郎だ。1972年の初代発売時のコマーシャルで、『旅の宿』を大ヒットさせ人気絶頂のこのフォークシンガーを起用したからだ。『僕らの旅』という書き下ろしのコマーシャルソングを使っていた。プレゼントに応募してもらったこの歌のソノシート、私はいまも大事に待っている。“ヤフオク”では2000円ぐらいなので、価値は、まあ、そこそこではあるけれど。レックスは、なので、自分にはちょっと“とっぽい男”のクルマという刷り込みがある。しかし、富士重工業(当時)の営業はそうは位置付けていなかのだろう。1986年の3代目では、美人女優、古手川祐子を起用した。のんびり行こうよと、ザ・バンドを率いてのボブ・ディランを軽くしたような、吉田拓郎の楽曲が提供していた光景とは、まったく異なる世界観を見せたのだった。とはいえ、コロコロとイメージが変わるのが、レックスだったようだ。古手川祐子の次にイメージキャラクターとして登場したのが、松田聖子である。聖子ちゃんのコマーシャルは1989年だから、ちょうど全米進出に向けてイメージを変えていた頃だ。レックスのCMでは、彼女の華やかなイメージとともにレックスが強く訴求されていた。そしてなんと、1990年には、山田邦子が起用された。『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系列)などをはじめとする“お笑い番組ブーム”に乗って人気がでて、そのあと、タレントとして存在感を発揮していた山田邦子。レックスのCMでは、緑一色の衣装と、体操のような振り付けで、レックスを表現しようとした試みがユニークだった。キャラクターの変遷を観ていると、親しみやすさを演出したいという狙いがどんどん強くなっていったのが見てとれる。もちろん、メーカー内でコマーシャル内容に最終的な決定権を持つ宣伝部もメンバーは変わるはずだから、長期戦略があったとはかぎらない。レックスのコマーシャルは、時代の嗜好を反映する鏡のようなものなのだ。ここに取り上げたコマーシャルの対象となったクルマは、すべて3代目。このときのレックスは、クルマとしても、印象が強い。スーパーチャージャー搭載で、低回転域からのダッシュ力を見せつけたスポーツモデルも設定されていた。1992年にフルモデルチェンジして、「ヴィヴィオ」と車名も変わった。よくいえば、洗練性が上がったものの、ソフトな印象が強くなりすぎて、物足りなかった、というのが私の感想だ。文・小川フミオ, そんなのあった? クルマ好きでも「忘れがち」な「レア度満点」の国産オープンカーたち, そっくり?